秘書時代、退職は「闘い」だった
私が新卒で大手商社の秘書室に入社した1990年代後半、退職を申し出るというのは文字通り「闘い」でした。直属の上司に呼び出され、人事部長との面談を経て、最後は役員にまで報告される。引き止めの圧力、嫌味、時には人格否定にまで及ぶ言葉を受け流しながら、最終的には3-4ヶ月かけて退職にこぎ着けるのが普通でした。
私の同期で、最初の上司から「お前は社会人として失格だ」「裏切り者だ」と言われ、心身を病んで退職後3ヶ月間通院する羽目になった人がいました。彼女の能力は私が見ても優秀で、辞めた理由も将来のキャリアを考えてのもの。それでも、当時の日本の組織はそれを「個人の裏切り」として処理する文化がありました。
退職を伝えるという行為が、ここまで個人の心身を消耗させる必要があるのかと、当時の私はずっと疑問でした。
「退職代行」が登場した背景
退職代行サービスが日本で本格的に普及し始めたのは2017-2018年頃です。最初は「ブラック企業から逃げるための最終手段」という印象でしたが、私がマナー研修で受講者と話す中で気づいたのは、利用者像が想像と全く違うということでした。
研修先の人事担当者に聞いた話で印象的だったのは、退職代行を使った社員の多くが「特に問題のある社員ではなかった」ということです。普通に勤務していて、特定の上司との相性が悪い、引き止めが強すぎる、あるいは単に直接対面で話すのが苦手という、現代的な理由でした。
なぜ退職代行が必要になったのか。私は3つの社会変化が背景にあると考えています。
- 対面コミュニケーションへの心理的負荷の増加: SNS世代は対面での重要な意思表示自体を不得手とする傾向。退職という重大事項を直接伝えるハードルが、上の世代より高い。
- 引き止め文化の維持: 上で書いたような「闘い」としての退職劇が、依然として一部の組織で健在。労働者の権利が法的に保障されていても、実態は変わっていない場合がある。
- 労働組合運営・弁護士運営の代行の登場: 法的に交渉権を持つ代行業者が登場し、未払い残業代や有給消化まで含めて法的に解決できる仕組みが整った。これは民間業者にはなかった機能。
マナー講師として、私の見解
「マナー講師」という肩書きから、私が退職代行を否定的に見ていると思う方も多いかもしれません。実際、同業の講師の中には「退職は対面で伝えるべき」「代行は社会人として失格」という意見の方もいます。
しかし私個人の見解は明確に肯定的です。理由は3つあります。
理由1: 民法627条という法的権利の行使
日本の民法627条は、労働者には2週間の予告で退職する自由を保障しています。この権利を行使する手段として、自分で伝えるか代行を使うかは、本来同等であるべき。代行を「失格」とする思想は、労働者の法的権利を矮小化する考え方です。
理由2: 心身の健康保護
私が研修で見てきた事例の中で、退職を直接伝えようとした結果、パワハラ・嫌味・人格否定で適応障害になった方が複数います。心身を犠牲にしてまで「マナー」を貫く必要はありません。代行で機械的に手続きを終わらせ、心身を守ることの方が大事です。
理由3: 会社側の改善インセンティブ
退職代行が使われる組織は、何らかの問題があります。代行による退職が増えれば、会社側にも「自社の何が問題なのか」と内省するインセンティブが生まれる。これは長期的には日本の労働環境改善に繋がる動きだと考えています。
それでも、私が伝えたいこと
退職代行を肯定する立場から、それでも一つだけ伝えたいことがあります。それは「直接伝えられる関係性は、できれば最後まで保ってほしい」ということです。
上司・同僚との関係性が良好で、引き止めも穏やかな環境であれば、対面で伝えることが結果として後の自分のキャリアに有利に働くことが多い。退職後も連絡を取り合える関係性、業界内での評判、リファレンスチェックなど、長期的なキャリアでは「退職時の振る舞い」が後々影響します。
一方で、パワハラ・引き止めの圧力・心身への負担を覚悟で「無理して直接伝える」必要はありません。代行を使うかどうかは、自分の心身の状態と環境を冷静に見て判断するのが正解です。
代行を使うべきケース、使わなくていいケース
私が研修・1on1で受講者から相談された際、いつもの判断基準として伝えているのが以下の整理です。
代行を使うべきケース
- ・パワハラ・モラハラ被害がある
- ・引き止めの圧力で心身が消耗
- ・出社前に動悸・吐き気が出る
- ・上司が音信不通・捕まらない
- ・未払い残業代・有給拒否がある
- ・1ヶ月以上申し出られず悩み続け
代行を使わなくていいケース
- ・上司との関係性が良好
- ・引き止めが想定されない
- ・業界内での評判を気にする
- ・リファレンスチェックが予想
- ・退職後も連絡継続したい
- ・心身の状態に問題がない
最後に — マナーは目的ではなく、手段
マナー講師として15年活動してきて、私が一番大切にしているのは「マナーは目的ではなく手段」という考え方です。
マナーの目的は、自分と相手の双方が気持ちよく過ごせる関係性を作ること。それが達成できないマナー、自分の心身を犠牲にするマナーは、本来のマナーの目的に反します。
退職代行を使うか使わないかは、その本来の目的に照らして判断するのが正しい。「マナー的にどうか」ではなく、「自分と相手の双方が無理なく終わらせるためにはどちらか」を基準に選んでください。
「マナーは、自分を守るためのもの。自分を傷つけるマナーは、マナーではない」
— Action
退職代行の検討時のチェックリスト
代行を選ぶなら労働組合運営・弁護士運営のみ。民間業者は交渉権がなく、後でトラブルになる可能性。並行して転職活動も進めるのが現代の合理的キャリア戦略です。
転職活動も並行して
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